夜勤病棟の女神様(仮)

ひよっこナースの日常

看護雑誌で今夜も一杯 『小児看護 2015年6月号』

今回読むのはへるす出版『小児看護』2015年6月号。月刊誌です。言うまでもなく小児に対する看護を専門に扱う雑誌です。

小児看護 2015年 06 月号 [雑誌]

小児看護 2015年 06 月号 [雑誌]

またまた注文票が入りっぱなし、開いた形跡なしの1冊。小児は専門の臨地実習もあるのですが、確かに直接役立ちそうな感じの内容ではありません。今回はそんな特集「小児集中治療における終末期の意思決定支援」を角瓶<黒43°>で作ったハイボールとともに味わってみましょう。

医療従事者はもちろん人間

本題に入る前に、これは言っておかねばなるまい。とにかくカタカナが多い。まず一撃くれるのが「エンドオブライフケア」。これ、どこで区切ればいいんだよ。カタカナは外来単語も適当に書ける便利な道具ですが、外来語をそのまま書くのには向かないってことがわかっているのだろうか。

そんなレベルではなく日本語を舐めている感があります。表記揺れ、表現の揺れが大きく「エンドオブライフケア」相当であろうものもパラッとめくっただけで結構出てきます。

  1. エンドオブライフケア
  2. end-of-lifeケア
  3. ターミナルケア(末期患者のケア)
  4. 終末期医療*1

筆者がバラバラだからと言うのはあるのでしょうが、頭括記事でここまで書いちゃっているだけに悲惨としか言いようがありません。

エンドオブライフケア

ターミナルケアや緩和ケアを内包する概念として誕生した。

(p.656)

尤も、このような揺れは本題への架け橋としても機能します。小児の(小児以外でも)終末期に関する医療は新しさを含む分野で、まだ多くが固まっていないってことがわかります。一般には未だに「脳死は人の死か」、小児に特化すれば「重度障害児を人工的に生かさず、自然な死へと向かわせるのは殺人か」とやっているわけですが、それが専門家においても同じであると言うことです。もちろん、実務で殺人罪などに問われてはかないませんから、職能団体等による判断のガイドラインは存在します。

www.jsicm.org www.jpeds.or.jp

しかしそれでも、まだ迷っている中にいることが記事からも感じられました。尤も、生死はいわば神の領域。我々は迷い続けることなのかも知れませんが。

終末期最初の作業

終末期医療を考えるときに、重視されなくてはならないのは「当人にとっての最善」であることが特集全体からも伺えます。臓器提供がまさにそうですが「私は脳死状態において臓器を誰かに提供したい」という意思があれば、その当人の意思を尊重することこそが最善であるとされています。ここは非常に明快で、大多数の理解を得られることかと思いますが。例に挙げた臓器提供にしても、どうしても「当人にとっての最善」に近づけないことがあります。当人の意思がわからない場合です。

その場合が常に発生しているのが、小児における終末期医療の特徴と言えそうです。臓器提供意思表示についても同様の指摘があることは存じていましたが、なるほど、もっと広い範囲で問題になりますな。現状では法的代理人(概ね両親)により意思決定が代行されます。こうなると子供は大人のおもちゃ、お人形なのかという話になるのが悩ましいところではありますが、歯に衣着せずに言ってしまえば「口なしの意思などわかりっこないから問題にはならない」って具合ですか。今はまだ、彼らのどんな意思をも表出させる技術はございませんから。人によっては意外に思うかも知れませんが、技術の進歩だけが子供たちの最善を守ることになりそうです。

少々遠回りましましたが、終末期「看取プロジェクト」最初の作業、WBSの1行目は「当人となる子供の最善を決定する」ことになります。あ、ここでプロジェクトなんて言葉が出てくる経緯は前回の記事をご覧あれ。

nsns.hatenablog.com

このプロジェクト、開始直後から課題山積になる重たさだなぁと感じるのは私だけではなく、専門家連中も同じようです。

なぜ重たさを感じるのか、埼玉県立小児医療センター集中治療室・救急準備担当部長 植田育也氏が「『看取り』について私たちが戸惑う6つの理由」として興味深い記事を書いています。

  1. 終末期であるという判断ができない
  2. 終末期であることを家族に伝えられない
  3. 延命治療を差し控えることができない
  4. 主治医の意向・家族の希望が一人歩きしてしまう
  5. どのように看取ったらよいかわからない
  6. 看取るときの家族との接し方がわからない

(pp.696-701、小見出しのみ抜粋)

なるほどねぇ。特に「終末期であることを家族に伝えられない」や「主治医の意向・家族の希望が一人歩きしてしまう」と言ったあたりは、某IT業界での経験が思い出され深く頷ける内容でした。

  • 脳死状態である
  • 治療不可能、どんな処置をしても回復不可能である

こいつを正確に伝えられるか。頭痛が痛い*2ほどに難しい。

この記事ではその説明が何かの冗談かと思うほどひどいのですが、それは一部を引用するだけにしましょう。え、しちゃうの?

「お子さんは厳しい状態で、脳死に近いです…」程度しか、とても話すことができない。もちろん、その医療者のつらい身上は十分に理解できるものである。しかし、一般の市民にとって「厳しい」という言葉を使うことが、誤解を生むのである。医療者は「厳しい」という言葉を、終末期(=死が近い)という意味として使うことが多い。しかし、一般の市民は「厳しい」という言葉は「厳格な」という意味で理解しており、医療者が意図するような意味では理解しない。

(p. 699)

日本語を、そして日本語を第一言語に据える人を舐めるな。お前の頭が「厳しい」。三点リーダを1文字で使う程度の校閲状況は伊達じゃないぜ。

閑話休題。内容として「死亡が決まっている」と言うことがまさに厳しいことです。そのような状況下では、某IT業界でもお得意の「議事録で喧嘩の準備」が行われてしまう。両親から「延命治療をやめる」との言質を取ったら、それをご老公の印籠のように、けれども便利に使い出すってのが筆者の言う「一人歩きしてしまう」ですね。ああ、これは許しがたい。私は某でも、これを許しませんでした。

医療従事者としての専門技術、専門知識を身につけた上で。私はもう一度、同じ舞台に立つことになるのかなと思わずにはいられません。出来損ないの贋作印籠をかざすなんて絶対ダメ。私は3年後も、5年後も、そう思っていると言い切れます。

意思でも両親でもない看護師

他に特におもしろかったのは終末期医療の事例紹介。ここまででお察しの通り、前回、前々回と触れた話と柱は似通っています。踏まえて「看取プロジェクト」において、看護師の役割って何だろうね。とゆー記事です。

事例ではかなり家族側によった立場で活躍していました。終末期という嵐に放り出された家族を支えながら、家族の真意を汲み医師へと伝え、医療に反映する。そんな感じです。看護方面ではアドボケーターとか言うんだっけかな。advocatorじゃないあたりに厄介な感じを覚えますが。

看取プロジェクトという言い方にあわせるならば、プロジェクトマネージャの次席って感じの位置でしょうかね。上流で睨みを利かせることができるだけの発言力と教養のある人材が要される位置です。んー、看護師、少なくとも日本の看護師ってそーゆー感じだとは思えないんだけどな。「ぼくはもっとパイオニア」*3であれってことだろうか。

天地無用!の主題歌ベストアルバム

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今夜も一杯にふさわしくふらふらしながら書いてきましたが、今回も看護師になるのが楽しみな内容だったなと締めましょうか。金を捨てて出てきたのですから、楽しさは見いだし続けないとね。

*1:医療がケア相当かは意見の分かれるところでしょうが、この記事での扱いは相当と感じました。

*2:医療なのか看護なのか方面に向けては、この表現があえてであることを明記しないとならないのかも。

*3:横山智佐「ぼくはもっとパイオニア」